コンプライアンス
(Compliance)
「コンプライアンス/Compliance」という言葉に触れたのは今から5年半前の「日本病」について記載した時だった。あれから5年。日本人は「コンプライアンス」の意味を理解し、その目的とエッセンスを血肉として体得したのであろうか? 事態は全く逆の方向へ動いているのではないだろうか? と思うのは筆者一人ではないに違いない。 「日本病」でも触れたが、「Compliance」はその言葉の使い方次第では『全国民よ我に屈従せよ。全社員よお追従者になれ』と言っているのと等しい言葉で、決して『法令順守』等という高邁な精神に裏打ちされて使われている言葉ではない。 むしろ「法律や社内の規則に定めが無いならば、命令者の意のままに屈従するのが部下の役割である。」と主張する風潮が日本国全体を覆っている。 鰻に限らず各種の偽装工作は一向に無くならないし、粉飾決算等の隠蔽工作も後を絶たない。居酒屋タクシーなどは可愛い方で、社内交際費は禁止されていないのだから、「俺が飲んだ飲み屋の伝票は業者へ付回さないのだから、会社に請求して何が悪い。」とうそぶく輩まで出る始末。 そう言えばそれらの偽装・隠蔽・公私混同工作を指示したリーダー達が通っていた高級料亭は、客の食い残した残飯を使い回して利益計上工作をせっせと行っていたようであるから、類は友を呼ぶということであろう。 かのリーダー達にとっては、干からびたマグロの刺身に振りかけられた霧吹き水道水の味は、さぞかし美味であったのであろうと想像している。 このように書くと、『旦那、不平ばかり(=Complaint)を言っていると「出る杭は打たれる。」、「不平不満ぶんしだ。」、「密告者だ。」と誹謗中傷されて、将来良いこと有りませんぜ。』と忠告してくれる親切な(=Complaisant)人も出てくる。 親切な忠告には耳を傾けるにしても、「Compliance」を標榜すれば「コンプライアンス」が浸透し、「コンプライアンス」を尊重した企業や社会に生まれ変わっているのだとする、独善的ともいえる言葉遊びの社会現象に対してどうして素朴な疑問を持たないのであろうか? 我々日本人は遠い昔から、「信用第一」、「率先垂範」、「嘘をつくな」、「己の役割を果たせ」、「心の経営」等など、法律に書いてあろうとなかろうと人として生きる生き様について数々の教訓と知恵を積み重ねてきたと思う。 それを道徳と言うか倫理と言うかは人それぞれの好みであろうから筆者は制限するつもりは無いが、己の生き様に日本人はもっと自信と責任を持つべきではないかと思う今日この頃である。 掲載2008/07/06 |