CG・コーポレート ガバナンス

(Corporate Governance)

 「これからの企業経営にあたってはCGが重要である。・・云々」

 「CG・・!?。 ついに日本の企業経営もコンピュータ・グラフィックを使ってバーチャルでリアルタイムな経営の道を目指さざるを得なくなったのか・・、時代の移り変わりは早いな〜あ。世の中ススんでいるな〜ぁ。各企業とも最近とみに元気が無いし、元気になってもらわねばならないからCGが大切なんだな・・!。なるほど。よし!考えてみよう。

・・まずCGの優れているのはどこのゲームソフトだろう。元気を付けて足腰を鍛えるためにはウチの娘がやっている”ダンスダンスなんとか”というソフトもいいかもしれないが、年寄の筆者にはパラパラ踊りには足がついていかないからほかの連中にも無理だろうしな〜ぁ。対戦ゲームもあるけどガキっぽいし・・。”ミンナでゴルフ”も不況のあおりで接待ゴルフが無くなった今では妙に空々しい。・・・・社長から聞かれたらどうしよう。・・・・。ムニュムニュ・・・・。聞かれることは無いから心配無いか〜ぁ。あ〜っ、ビックリした。」 少し早めの暖かい春の日差しを浴びながらの午睡から、ウナサレながら目がさめた。

 CGは一般的に使われてはいないが、4〜5年前からコーポレート・ガバナンスという言葉が使われ始め、最近は当然の様に新聞紙上の活字となっている。直訳すると企業統治というのだそうだか、何とも訳の解からない言葉だと思う。

 「統治」と言う言葉を広辞苑で紐解くと、「主権者が国土および人民を支配すること。」と解説している。天皇陛下は国体の象徴であり主権在民と叫ばれて久しい日本国において、人民ではない主権者とは誰のことを言うのだろうと思ってもう少し読むと「国会・内閣・裁判所が第一次の統治機関」と定義している。・・三権分立のことだなと、頭の悪い筆者でも推測できたが、人民=主権者を支配する主権者とは誰のことを言うのかが良く解からない。パソコンのExcelの世界で当てはめると、循環設定といって永久に答えの出てこない定義となっている。

 魑魅魍魎、跳梁跋扈の政治の世界のことならば、むしろ永遠のテーマとして国民に「統治」と言う言葉の意味を考えさせる時間を与えてもらうことも、時として必要となる。

 ところが経済の世界ではコーポレート・ガバナンスという言葉の意味はまことに単純で、「企業を支配しているのは資本家即ちその企業の株券を持っている投資家が支配しているのであるから、企業の経営者とその社員は投資家の為に粉骨砕身汗を流し尽くしなさい。」という事の様だ。

 いやはや、スゴイ論理だ。さすがグローバル・スタンダードの国の人方の言う言葉は違うと妙に感心したが、同じ言葉を日本人である新聞記者や経営コンサルタントや評論家や経営者あるいは茶坊主までもが異口同音に発音するようになると、「ちょっと待って」と山口百恵の「プレイバック」風に反論したくなる。(大勢に流されたら給料も上がるだろうに、全く損な性分だと我ながら思う。)

 企業を支配しているのは投資家だという論理であるが、商法の世界では企業がどうなろうとも出資した資金以上の負担は負わなくとも良い有限責任しか負っていない人々が株主である。

 企業活動に必要な全ての原資を拠出している原始資本主義の時代ならば株主=企業の支配者という論理も通るであろうが、現代の企業は多くの金融機関から借金をし、関係取引先に手形を振り出し、地域社会と契約を結んでいる。もし株主が企業統治論を振りかざすのであれば、「有限責任」という逃げ道を返上して、企業統治者として企業が負っている全ての債務を返済してから主張するべきである。

 むしろ現代のコーポレート・ガバナンスは全く違う目的を秘めて主張されていることに企業人は早く気付くべきである。

 企業経営者の不祥事があとを絶たないし、株主軽視の風潮は一向に改まる様子が無いし、社員や関係取引先を守るよりも「○○印の看板は絶対に守る」と絶叫する有様だから、企業経営者を律する対抗力として企業統治論を振りかざすのであるが、本質は株式市場で儲ける筈だったのにデフレと株価の暴落で大損をこいている、その意趣返しとしてコーポレート・ガバナンス論を振りかざし、株式配当以外の経済領域で私腹を肥やそうとしている意図が彼らの行動の深層海流として流れている。

 勿論社会文化の形成過程が違うことにも着目する必要がある。欧米の場合には、大航海時代のメディチ家の様にパトロンとして出資し一攫千金の博打を打ったが、日本の場合には何事も信用第一でお店を守ることを大切にしてきた歴史がある。

 お店の旦那様は、無限責任を負う出資者であり、経営者であった。従ってお店の旦那様は絶大なる権力を持つ反面、常に神仏にすがり自らの判断の誤りの無いことを祈念し、信用第一・お客様第一、神の見えざる手に仕える事を仕事と考え、教育程度の低い丁稚どんの親として師匠として模範を示さねばならぬと自らを律してきた。

 ところが戦後の民主主義の中で、所有と経営の分離が叫ばれ、農地解放よろしく経営をテクノクラートに譲り渡した途端に、偏差値が高く要領の良い人々が経営層に取りたてられる時代になると、本音と建前を使い分けることこそ優れた経営者であると誤解する人々が多数派を占めるようになってきた。

 そのような優秀な人々であっても5年後10年後の世界は、神ならぬ人間であるがために見通すことが出来ない。そこでかの人々は、5年後に定年になるか、他の部署に異動しているかを瞬時に判断して、責任が自分に及びそうもないと確信すると実に無責任に突撃ラッパを吹くのである。堪らないのは、突撃ラッパの音を聞いてパブロフの犬よろしく前線に駆り出される筆者のような兵隊である。

 現代の日本企業の力が極度に脆弱化しているのは、「言っていること」と「やっていること」と「考えていること」が全く一致しない分裂病的経営体質にある。

 「言っていること」と「やっていること」と「考えていること」が一致させられるならば、企業は確実に活性化するし、かの茶髪のオジさん達もコーポレート・ガバナンスなどと戯けた事は言わなくなるに違いない。それでも言うなら株主代表訴訟を買って出ることである。企業経営に全責任を負う気概と実行力が伴っているならば、訴訟で負けるのはあの茶髪のオジさん達であるのは間違いが無いのだから。

掲載2002/03/10