デ・ファクト・スタンダード
(de facto standard)
直訳「事実上の標準」から、市場競争原理によって事実上市場を制覇し、その製品の機能が標準となること。多くの場合、グローバル・スタンダードに対する対比として用いられる。 かってVTRの録画方式をめぐって、ソニーのβ方式と松下・ビクターのVHS方式が激しく対立したことについては、まだ記憶に新しい。 技術的には優れていると言われていたβ方式が、低価格で市場を席巻したVHS方式に敗れるという事態が起こったのである。 これなどはデ・ファクト・スタンダードの典型的な現象だろう。 敗戦から立ち直り、高度経済成長→花見酒の経済→油断に始まるオイルショック不況を経てバブルを経験した日本経済。 過去の先輩達の汗と油と涙にまみれて築き上げた努力を軽視して不動産を買い漁り、客を客とも思わない慢心した精神で世界中を闊歩していた。丁度、日露戦争に勝って慢心して、太平洋戦争に突入していったのと同じ精神構造である。当然慢心した精神に裏打ちされたバブルは見事に弾けることとなった。 この日本人のすぐに慢心するという精神構造は、地政学的要因に大きく影響を受けている。というのは、島国であるために他の民族の侵略を受けることもなく、価値観の異質性に悩むことも無かったし、相互理解に努力する必要も無かった。 従って小さな世界でトップになると、その人の考えがその小さな世界のデ・ファクト・スタンダードになり得たのである。 高度経済成長期の汗水流した先輩達と、バブルで良い思いをした先輩達の精神構造の違いは何だろうか? 高度経済成長期の先輩達、その多くは既に定年で退職しているが、貧しさからの出発であったために常に「信用、努力、誠実、人のために」といった「心の経営」を標榜していた。 一方、バブルでその能力を評価され今まさに社会の中枢を占めることとなった先輩達は、「何でもあり、要領、駆け引き、自分のため」といった「現世利益」を追求する精神構造を持っている。 そして次の世代は「イジメと、シカトと、集団リンチ」に身を置くことになるのだろうか・・・? 実は、そのようにはならないのである。 バブルの先輩達の時代までは「島国の精神構造」で十分デ・ファクト・スタンダードを確立することが出来たのであるが、情報技術革命によって狭い組織の論理だけでは世間一般には通用しなくなりつつあるため、「現世利益」のみを追求する精神構造は、唾棄される可能性が強まっている。・・・?。と期待できる。 21世紀の経営のデ・ファクト・スタンダードは、もしかしたら「心の経営」に戻るのではないかと期待しているのは筆者だけだろうか・・・? 掲載2000/05/14 |