形式知

 知識の2つの側面のうちの一つ。

 文章や図表など、何らかの形で他人に伝達できる状態になっている知識を形式知という。

 人間が言葉を介して意思を伝達しあっているという意味では、形式知として認識される状態にまで、その個人なり組織なりが有している知識を整理・統合することは大切な能力である。

 ただこの種の能力は、偏差値の高い人々に比較的多く備わっているように思われる。物事の整理整頓に長けているためだろう。誠に羨ましい能力である。

 しかし人間の営みは、この形式知の多さのみでは成立しないのも事実である。インターネットの世界には無限の形式知が詰まっているが、その知識を全て理解したからといって、一流の人間・企業になれるわけではない。神様は公平な脳細胞の仕組を考えられたと思う。

 知識をもとに行動し、その結果得られた成功体験や失敗体験が、その個人や企業の暗黙知として昇華され、次の行動パターンへと活用されてこそ、初めて生きた知恵となる。

 ナレッジ・マネジメントでは、この形式知と暗黙知の関係をSECIモデルとして体系化し、「知識創造スパイラル」と呼んでいる。

 この関係はず〜っと昔に、安倍公房の「砂の女」か何かの本で読んだ記憶がある。或いは輪廻という仏教概念に近いかもしれない。

 知識を多く持つ者は、その一点だけでも優位な地位にいると言うべきであるが、願うらくはその知識を良い方向で活用してもらいたいものである。人を騙すために知識を利用することの無いよう心すべきである。

 如何に多くの形式知を集めようとも体験に根ざした暗黙知が無ければ、その人や組織に本当の意味での「生きた知恵」は形成されない。近年、過去の試験問題を解く能力に長けてはいても、新たな問題を解決するために推考できる能力が劣っている学生が増えていると言われている。

 この問題は何も学生だけの問題ではない。社会人においても同様であって、前例踏襲を主張することはあっても、問題を解決するために新たな挑戦に取り組もうとする者は以外と少ない。きれいな仕事は好むが、目立たない泥にまみれる仕事は忌避する。

 体験に裏打ちされた暗黙知をより多く持つ人は華々しい一線を歩くことは少ないであろうが「生きる知恵」を強かに身につけていると感心させられる。エリートと目されている人間の話を聞くよりも、現場で働くオジサン・オバサンの話を聞くほうが遥かに実務的な合理性に適っていると思うことがある。

 知恵は、形式知と暗黙知の掛け算で形成されると筆者は考える。

 20の形式知を持っていても1の暗黙知しか持たない者は20の知恵しか持ち得ない。一方、5の形式知しか持たなくとも5の暗黙知を有する者は25の知恵を有していると考えられるのではないだろうか。

 そして今、インターネットの世界では、多くの人々に公平に膨大な量の形式知が提供されつづけている。形式知は目の前にある。あと足りないものは・・・。

掲載2000/02/13