ヒューマン・キャピタル

(Human Capital)

 かって若い情熱で経済学を勉強していた時、当時の思想は資本家に対する労働者という階級闘争的経済観が否定されつつあり、資本と経営の分離によるテクノクラートの重要性、労働者の経営参加へと変化しつつあった時代であったように記憶しているが、あの頃は青臭く資本財と労働という2つの資源が投入されてある生産財を生産するという新古典派経済理論に傾倒したものである。

 この資本家、経営者、労働者という言葉のその後の使われ方の変遷を見ると興味深いものがある。

 その一つは、『家』と『者』の使い分けの理由である。資本家乃至は資金提供者という言葉はあっても『資本者』という言葉は無い。従って『家』の付く資本家と『者』の付く経営者・労働者は、日本人の言葉の使い方の意識の中で完璧に峻別されていることに気づく。

 資本からの経営の分離乃至は独立という言葉が1970年代に流行った。マクナマラの戦略論から発展したと記憶しているが、オーナー社長が独裁的に経営に携わるよりも経営テクノクラートによる専門集団に委ねた方が、企業が発展するという考えで、当時はオイルショック後の不況下でもあり、創業者の経営責任という側面もあったので、経営の分離が比較的スムーズに受け入れられた。無血開城に近い。

 その当時の経営者は、よく働き、現場を重視し、企業の立て直しに励んだと思っているが、やがて雇われマダム経営者やお神輿経営者、権謀術策経営者や賂経営者が現れ、バブルへと猪突猛進していったのである。

 広辞苑をひも解くと「経営」とは、@力を尽くして物事を営むこと、Aあれこれと世話や準備をすること、B継続的・計画的に事業を遂行すること、とある。広辞苑の定義するイメージと近年の経営者像とは何かが違っている。

 それは企業組織を構成する労働者に対する意識の希薄さではないかと思う。このように書くと『社員一人一人の顔と名前を覚えること』と勘違いする人がいるかもしれない。クラウゼビッツの戦争論でも「一人の指揮官が掌握できる兵隊の数は10人以内」とされており、数千人・数万人の規模の会社になれば顔と名前を覚えることは不可能である。不可能なことを人に要求してはいけない。

 労働者に対する意識の希薄さとは、企業組織を構成する労働者や協力業者に対する責任意識の希薄さ、関心の低さである。様々な企業の倒産記者会見を見てつくづくと感じさせられるのは、起立してお辞儀して原稿を読み上げる経営者が如何に多いことか。

 そこに現れている顔の表情は「ボク悪くないも〜ん。ボクチャンだって明日から生活に困っちゃうんだから〜。」といった意識がありありと垣間見える。涙と鼻水を流した山一證券の社長のような記者会見は滅多に見られない。

 では労働者についてはどうだろう。

 もう一度先の広辞苑で「労働」をひも解くと、@ほねおりはたらくこと、体力を使用してはたらくこと、A人間がその生活に役立つように手・脚・頭などをはたらかせて自然原料を変換させる過程、とあり、「労働者」とは、@肉体労働をしてその賃金で生活をする者、A労働力を資本家に提供し、その対価として賃金を得て生活する者、とある。どうも、当っているようで違うような、シックリこない。

 言葉の変遷を見てみよう。

 遠い昔には労務者といい、やがて労働者、勤労者、人材、知的労働者、ヒューマン・リソース、ヒューマン・キャピタルと移り変わっている。

 ヒューマン・リソースまでの表現は、広辞苑の定義に近い。そこに表れている意識は、資材や機材と同列の人である。決して資本財と同じは用いていない。

 かって「人材殺しの時代]と言われたことがあるが、そこらに転がっている板切れか鉄板のように労働者の持つ体力や知識を切り取って、我が身の栄誉を達成し、顧客に販売する商品を作る材料と見ている。誰が見ているかというと、労働者に対する意識の希薄な「元労働者」であった経営者が見ているということ。

 労働者であった者が、労働者を差別し虐待するわけが無いと思われる方もいるかと思うが、人間というものは二つのタイプに分けられる。一つのタイプは自分が嫌だと思うことは他人に強要しないタイプ。もう一つのタイプは、自分がやった以上のことを他人に強要するタイプである。上長に対しては自分を無にして胡麻を擦り、目下の者に対しては自分が上長に対しているのと同じことかそれ以上のことを要求し、命令する事はあっても適切な指示と動機付けの出来ないタイプの方が圧倒的に多いのではないだろうか。この様な親の行動が子供に影響し、「荒れる高校」→「イジメの中学」→「シカトの小学」へと伝播しているのではないだろうか。

 「荒れる高校」を経験した年代が社会人となっているということは「荒れる企業」が目前に迫っているということにもなりはしないか。そのように考えると「荒れる高校」の原因を見つめることが「荒れる企業」の予防と対策になるのではないか。

 材、乃至はリソースという言葉には、長い間に使い尽くされ、その価値を減少させる資源という語感が伴う。

 これに対しキャピタルという言葉には、お宝であり、投資であり、リターンであり、蓄積という語感を感じさせる。(英語の出来ない筆者の語感だからあまり当てには出来ないが・・)

 人間という財に適切な投資を行なうことによって、その組織の所属員の能力を高め、効率の良い企業経営を行なって、最大の収益率を達成し、更により良い人財を蓄積するという「人財蓄積論」に発展する可能性を秘めているのが「ヒューマン・キャピタル」の概念だと思う。

 但し、その概念は無責任なやる気の無い人間をも「お宝」として認識すると言うことでは全く無い。お金も人も財としての機能を追及するならば、最も経営効率の良い財に投資すべきである。

 かってVintage理論で触れたように、資本財に製造年月日があるように、人財にも製造年月日が刻印されていることを一人一人が認識しておく必要がある。手入れしない限り、古い物は、あくまでも古いのである。

 2000年入社の社員は、キーボードに何らの抵抗感も感じていない。一方1970年代以前に入社した社員はキーボードはおろかパソコンと聞いただけで拒絶反応を示し、デジタル・ネットワークよりも人的ネットワークへ、特に有力者とのネットワークの形成により一層傾倒することとなるし、パソコンの利用普及を出来るだけ遅らせようと様々な理由を述べて抵抗する。

 これは情報技術革命で述べたように、地位を脅かされるかもしれないと予感している古いタイプの人材Vintageによる空しい抵抗である。とはいえ、古いタイプの人材Vintageが抵抗する限り、そこには犠牲者が出てくる。革命に犠牲者はつきものだなどと無責任なことは言えない。

 犠牲は極力少ない方が良い。最小限の犠牲で、革命後の発展を期することが出来るのは、聡明な視野と識見を持つ経営者の適切な指導力だけである。

掲載2000/05/28