人才→人材→人財

 先日、「ヒューマン・キャピタル」について書いてから、ヤケに心に引っかかっている言葉がある。このままにしておくとSTRESSが貯まりそうなので、独断と偏見で整理してみることにしました。

 「人才」=才能又は才覚を持った人と定義したらよいのだろうか?広辞苑には「人材」と同じとしているものの定義は無い。

 そこで「才能」を紐解くと、「才知と能力。ある個人の一定の素質又は訓練によって得られた能力」とあり、「才覚」とは、「@学問の力。A知力のはたらき。機転。B計画。工夫。」とある。

 筆者流の定義は一先ず置いといて,「人」についての広辞苑の定義を見てみよう。

 広辞苑は「人」を次のように定義している。「才知ある人物。役に立つ人物。」。

 前段の「才」とは、「生まれつきの素質・能力」であり、「知」とは、「@しること。しらせること。B十分に知ること。」とある。後段の「役に立つ」とは、「その役に適当である。用をなすに足る。」と定義し、「役」とは「@官から人民に課する労働。B職務。官職。Cそのことに当ってなすべき努め。」とある。

 「生まれつきの素質・能力」を持った人は確かに存在するが、あまり多くはいない。大半は「生まれつきの素質・能力」を持っていないのが普通ではないだろうか?

 持っていると言える人は羨ましいが,少なくとも小市民の筆者には残念ながら備わっていない。従って「人材」とは目されていない。

 生まれつき一流の素質や能力が備わっていないのに一流を目指そうとするから、卑屈にもなるし茶坊主にもなる。

 「役に立つ人」とは、広辞苑の定義で言うと「ことに当ってなすべき努めを行なうに足る人物。」ということになる。「ことに当ってなすべき努め」を行なうとは、上長に迎合することとは違う。何に対して「なすべき」かというと、「自らの才知を持ってなすべき努め」であり,「神・仏に対して努める」という意味が含まれている。

 ところがいつのまにか日本社会は、「上長の言いなりになって猪突猛進し、喩え火の中水の中、上長の命令ならば上長の上長を刺し殺すくらい何とも厭わない明智光秀の家来みたいな人物」が「人」と認定される社会になってしまっている。「人に対して努める」のである。

 バブルの頃、「殿ご乱心を」と諌めたために、即座に「この乱心者めが!」と言われてクビになった人物がいたようだが、大半のサラリーマンはそのような危険は犯さないし、そのような危険人物との関わりを極力避け、無関係を装う。そして我武者羅に上長の意を体で表わし、危険人物をイビリ尽くすのである。

 そこにある思想は何かと言うと、「人」とは木や資と同列の料であって、神ならぬ使う人=上長の意に適うように切り取りできる質=素質を備えた人物が「人」であると解釈する階層が圧倒的に増加していることを意味する。筆者が「戦後教育の失敗」と言うことの一つは、この部分である。

 そのようにして粉骨砕身、上長に尽くすのであるが、なにせ元が木と同列の料であるから、切り取って使ってもらえる部分も残り少なくなり、晴れて用無しとなって定年退職を迎えることになる。

 退職しても、年金はすぐには貰えないし公園で一日中ひなたぼっこするわけにもいかない。ましてや家に居ようものなら愛妻から「貴方が家に居るから友達が遊びに来てくれないじゃない。会社勤めの時は午前様だったから朝ご飯だけ用意すれば良かったのに、今では3食も作らされる。少しは食事の用意は自分でしたらどうなのよ!」と叱られる

 日中、外で過ごすためには、勤めるのが一番と、止む無くシルバー人銀行に行って相談すると、

「おじいちゃん、どんなお仕事が出来るの?」とやさしく聞かれたので、

「部長の仕事なら出来ます。」と自信を持って答えたら、

「そうではなくて、何か手に職は持っていないの?植木の剪定が出来るとか・・、パソコンが自在に操作できるとか・・」と親切に聞いてくれたのだが、

「植木の剪定が出来るほど大きな樹のある家に住んでいたわけでないし、ましてやパソコンなど触らなくとも部下に命令すればどんな資料でもすぐに作成出来た。」と憤慨して返答したら、

「なぁ〜んだ。何にも出来ないのね。困ったわねー・・・。駅前駐輪場の整理の仕事があるけど、一日中立ち仕事だから、大きな椅子に座って書類の決裁をしていたおじいちゃんにはチョット無理ね。そうそう空き缶の選別仕事なら座って出来るからどうかしら!リサイクルは大事な仕事だし、アルミ缶とスチール缶を選別する仕事って、部長さんの決裁の仕事と似ているじゃない。」

 それで空き缶の選別作業に従事することになるのだが、どうもシックリこない。

 20年前なら、定年退職したら5年も経たないでかなりの先輩達が物故者となった。だから残り少ない余生を楽しく生きようと考えたが、今では70過ぎても元気。頭だってボケてはいない。

 いやボケた方が良いのかもしれない。介護保険制度が出来たことでもあるし、ボケたらきれいなヘルパーさんにやさしくお世話してもらえる。

 ・・・・と。

 あながち空想の世界ばかりとは言えない世界が目の前で起こりつつある。何が間違っているのかと言うと、少子高齢化社会全体の問題を全体の1割にも満たない要介護老人問題にすり替えていることと「」の概念を良しとしてきた社会とその構成員に原因があると筆者は考える。

 「人」を資本財と同じ「人」に置き直して考えてみよう。

 Vintage理論で説明したように資本財にも労働財にも製造年月日が刻印されている。何らの手入れもしなければやがて製造時に想定されていた生産曲線を描いて耐用年数を迎えることとなる。しかし常に手を加え磨き上げるならば、資本財は初期の設定以上の耐用年数と生産性を実現する。労働財においても同様のことが言える。

 これから大量に排出される老人=元気な老人という労働財を社会的に抹殺するのか、社会的に活用しようとするのか、そこのところがまちおこしや村興しで念頭に置くべき視点であり、政治の分岐点となる。

掲載2000/06/11