叱る
先々月飲んだくれて帰宅したら、「殺された17歳の友人の死体がライターオイルで焼かれているのを見ていた少女」にインタビューをしているテレビ・ニュースが流れていた。
ニュースは続けて新橋の交通広場で、事件に関与した年代と同じ年代くらいの子供を持つであろうと思われるサラリーマンや子持ちOL達にインタビューをしていた。 アナウンサー:「あなたはお子さんを叱ったことがありますか?」 通行人女性B:「うちのボクチャンが何か悪いことでもすると言うの!社内でも憧れのマドンナで通っている私のような美貌の持ち主がそんな悪い子を産み落とす筈が無いじゃないですか。失礼ね!!セクハラで訴えてやろうかしら。覚えておきなさいよ!!」プンプン 通行人男性C:「私のように社内でも人材と目されている人物は、ご幼少の時から叱られたことがないから、叱るということがどういう意味か判らない。従って叱り方が判らない。くだらん質問するなょ。」 テレビのインタビューは上記の会話ではないが、会話の一部分を強調してみると上記のような世相の実態が浮かび上がってくる。 そういえば、学級崩壊と校内暴力が発生する前兆現象として教師の体罰禁止がマスコミで騒がれ(現代はセクハラですが)、ダメ教師は勿論のこと、ダメ教師の烙印を押された多くの優秀な教師が教壇を離れて久しい。戦後、家庭も含む日本の教育に異常事態が起こっているのではないかと確信せざるを得ない現象が現実化しているのではないだろうか。 優秀な教師が学校を追われた時の様子を想像してみよう。 --学校の廊下にて-- --教室にて-- --職員会議にて-- さて、賢明なる読者はこの学校の問題をどのようにしたら解決できると思われますか?K先生が悪いのでしょうか、悪ガキ共でしょうか、クラスメイトでしょうか、教頭でしょうか、校長先生でしょうか、それとも家庭の両親でしょうか・・。 アイツが悪い、コイツが悪いという評論は誰でも簡単に言える言葉です。筆者が読者である貴方から教えて頂きたいのは、貴方がK先生の立場ならどのようにしたらこの問題を解決できたとお考えか、具体的解決策なのです。 子供を含め自分と関係する人々を時として「叱る」ことは、人間社会のシステムの安定を図るために、不可欠の行為なのではないでしょうか。 試みに例によって広辞苑を紐解くと、「叱る=@声をあらだてて相手の欠点をとがめる。とがめ戒める。A悪口を言う。」とあり、今回の場合は@の意味で、とがめるとは「@気にかける。A取り立てて言う。B取り立てて問いただす。責める。非難する。」とあります。 相手のことを気にかけるからこそ叱るのであって、どうでもよい無関係の相手ならば叱ることは無いでしょう。ところが分別盛りの評論家の先生方は「叱るという行為は相手に傷を付けるので、諭すべきだ。」とおっしゃられる。 「叱る」とは口で匕首を使う行為なのですから、当然相手の悪いところに傷を付け切除する行為を意味します。匕首で自分の指を切った経験があるからこそ、その痛さも使い方も判るのです。そして相手に素直な心がいくらかでも残っている場合に限り、叱る言葉は相手を矯正・成長させる数少ない手段になるのです。 でも「諭す」では相手の悪行を直すことはできません。何故なら「諭す」とは、「神仏が啓示・警告して気づかせる」行為なのですから、神をも畏れぬ外道の不届者には通じない行為であり、ましてや神ではない我々凡夫の人間にそのような大それた行為が出来るわけが無いのですから。 目の前で起こっていること、耳に聞こえていることの真実を見極めることなく、風評、讒言、陰謀、欺瞞、儀網に身を委ね、正義を追求することなく、ただただ保身にのみ明け暮れする社会的怠惰と手抜きと腐敗が日本を覆い尽くし、陰湿な不作為という闇の大王と結託することによってのみ我が身を生き永らえれると考える集団が増えたのではないだろうか。 ここまで書き進んで眠ってしまったら、10日ほど経って、こんな夢を見た。 満員のバスに座席指定券を受け取って乗り込んだ時のことである。私の指定座席には、かわいい女の子を連れた親子連れが座っていた。 私:お嬢チャン、そのお席はおじさんの席なので、お母さんに抱っこしてもらって空けてくれないでちゅか。 運転手:(ボリュームを最大にしたマイクを持ちながら)乗客の皆様にお伺いしまあ〜す。先程来から中央部付近で何やらお客様同士で争っていらいしゃいます。どちらが正しいかは私共にとってはどうでも良いことですので、ご迷惑かどうか、運転手までお知らせくださあ〜い。 運転手:乗客の迷惑になる方は弊社のバス乗客運搬管理約款第53条の規定により下車して頂きます。どちらを下ろすかは緊急事態ですので規定により運転手の判断にお任せ頂きまあ〜す。3人下ろすよりも1人降ろすほうが手間隙かからず運賃収入も減らなくて経済効率に適いますので、そのみすぼらしいジジイ、直ぐ降りろ!(シメシメ、これで停留所に止まる度にあの親子連れからオヒネリが貰えるというものだ。これだから運転手は辞められねーェ、気楽な家業ときたもんだ、とくら〜。バスはあ〜走る〜・・) カクシテ、大きな憤りと深い悲しみを感じながらCrossing Roadで自主的に下車した私は、一人バスを見送ることになったのである。 しかし、路傍を歩いてみると車窓からは決して見ることのできなかった可憐な花々が健気に咲き誇り、アリ達が一糸乱れぬ隊列を組んで餌を巣に運んでいるではないか!。 何千年も受け継がれてきた生活の知恵を頑ななまでに受け継ぎ、自らの定めを素直に受け入れ、決して奢ることなく仲間を裏切ることもせずに、働いているこれらの小動物を見ると、現代日本の組織常識はかなり自然の摂理に反しているのではないだろうかと思い込んでしまう。 やって良いことと悪いことの善悪の判断を放棄して、大日本帝国陸軍参謀本部よろしく命令することはあっても決して前線に立つことは無く不作為に徹し、真実を探求することなく風評電文に一喜一憂し、言葉遊びばかりで実現力がなく、天下国家を吟ずる割にはマニュアル内規に頼り、事実を捏造・歪曲して嘘をつき、背信的権力者に擦り寄り面従腹背でその寵愛を受けることこそが立身出世に繋がると考え、自らの信念で判断し発言することはリスクが及ぶと確信して様々な前提条件を付け、走り回るだけで働かず、わずかな苦難を針小棒大に脚色し、少しでも結果が悪ければ行李の奥に仕舞われていた虫食いだらけの検討書を持ち出して他人のせいにする人々が多くなっているのではないだろうか? それと比べて、利他行動に徹するこの小生物達の何と素晴らしいことか。 先日NHKのプロジェクトXで再々々放送された「瀬戸大橋建設」に携わり愛妻を失いながらも毎日何千人もの人数を超える建設関係者を束ねた杉田所長が、橋の完成後、残された三人の愛娘を育てた実話は、それが現実にあった話であるだけに深い感動を覚えるものだった。 曰く、「人生にはお金や地位以外にも大切にしなければならない何かがあるのです。それを見つけるためにこれからも努力したいと思います。」うる覚えで正確な言葉ではないが、そのようなメッセージを発していた。 日本病に冒されて十数年、少しずつ治りかけている様であるが、いかなる時代においても日本人が失ってはならないもの、誠実、尊厳、・・、戦後荒廃の中から立ち上がった少年が示したあのキラキラと希望に光る瞳の輝き、・・。 理不尽や不条理を許さない社会的システムがデ・ファクト・スタンダードとして確立し、そのシステムに対する信頼が形成されて、いつまでもそのシステムを持続させ続けたいと思う人々の不断の努力こそがドーシツ社会から這い出すためのの第一歩になると信じるのは筆者だけであろうか。 かくして愛妻と愛犬とを連れ立って道を歩むことになったのだが、かの人々がその後いずこの地に辿り着いたかについては知る由も無い・・・・。 掲載2003/12/07 参考1:「職場の人間関係に苦渋を覚える時に」(関西学院大学・西山美嵯子名誉教授pdf) 参考2:本稿の原稿を書き終わって間も無く、日経新聞の1面広告欄に『「叱る」時代に戻せ−−愛がなければ叱れない−−』(廣済堂出版)という題名の新刊書の案内が出ていた。筆者と同じような想いで書かれているのかしら・・・・?「今度、本屋で立ち読みしてみよう〜っと。」と、本屋さんでタダ読みしようとしたら、天井裏から著者に叱られそうな感じがしたので、師走を迎えて給料が減った身には厳しいが購入することとした。「ウ〜む。なるほど。・・。年寄り向きかな?キビシーけどそれが普通かな!」 |