複雑系
(Complexity)
複雑な現代だから「複雑系」かと思ったらそう単純でもなかった。 複雑系については、1920年頃に問題意識が芽生え、1990年代に入って過去の単純なモデル理論(=単純系)では説明のつかない現象が認識され、ファジー理論やカオス理論が提唱され、現在ではサンタフェ研究所の提唱する「複雑系」が流行している。 その理論とは「全体を構成する多くの要素が互いに干渉し、何らかのパターンを形成したり、予想外の性質を示したり、また形成されたパターンが各要素そのものにフィードバックする。」というシステム理論である。 当を得ているのであるが、複雑過ぎて容易に理解できない。 経済学の世界に置換えると、かってP.A.サミュエルソン教授は「合成の誤謬」という概念を提唱した。個々の経済主体(企業や企業の一部門或いは私達のような消費者)にとつてベストと考えた選択が必ずしも全体の経済にとって望ましい結果をもたらすとは限らないという概念である。 近代経済学の単純化されたモデル理論では「消費者はその効用を最大にするように財を選び、価格決定メカニズムを通じて最適価格で最適な量を購入する。」が、効用を最大化させる財の選択は時間的制約でほとんど不可能となる。最適価格も多数の供給者がいる状態ではこれまた不可能である。 最適選択に要する時間を計算するために「財の比較を行なって選択を決定する時間」を考えて見よう。 財の数をNとすると2のN乗の時間がかかると仮定する。1財の時に0.2秒かかるとしたら2財の時には0.4秒、3財の時は0.8秒、10財のときは102.4秒、20財は104,857.6秒、なんと29時間もかかってしまうのである。 女房族のデパートでの買い物に時間がかかるとはいえ、そのような行動は取っていない。ということは、効用の最大化を図るという観点では消費行動はしていないということで、近代経済学の理論前提が崩れてしまう。 ソ連崩壊に至った計画経済も又然り。綿密に計算されたはずの生産システムがなんと数多くのムダと不効率と悲劇を招いたかは説明する必要もないだろう。 では近代経済学の後の現代の経済学は理論構築に成功したかというとそうでもなくて、まさに研究の途中らしく、1997年に「進化経済学会」を設立して「複雑系」を取り入れた理論構築に励んでいるそうである。 何となく筆者が昔勉強したVintage理論のようなことを研究しているのではないかと想像している。 この「複雑系」の問題は、企業経営にも影響を与えるに違いない。 これまでの「単純系」の経営思想では、「企業組織の構成要素である社員や各事業部門の質の和がその企業の生み出す価値」であり、社員や部門は単純に自己の業務に関わる限られた情報のみを把握していれば良かった。 従って単純系経営者はTQC活動やOJTで社員や部門のスキルを高めると企業業績を高められると考え、終いにはエキスパート・システムを導入すれば、給料が高い割に歳をとっている熟練者が不要になって人件費率が低下し、企業業績を向上できるのではないかと考えた。 単純系の考えではパラメータさえ変えれば、歳をとった熟練者と同等程度の成果があがる筈だった。しかしそうはなっていない。経験の無視とセクショナリズムと他人の意見に耳を貸さない独善とが台頭し、盲目的にバブルへと突き進んだのである。 企業人として働くことの意味を知らない経営者やリーダーが企業経営に携わるとそのような間違いはしょっちゅう起こるに違いない。 ナレッジ・マネジメントは、「企業の様々な構成要素が互いに影響し合うので、企業が集合体として価値を生み出すためには、組織をまたがって連鎖することが必須条件であり、そのためには情報・知識の共有が重要になってくる。」と説明する。 しかしここにも落とし穴があって、単に持てる知識や情報をコンピュータ・サーバーの中に入れただけではだめである。 「貴方裏方、私はスター。」、「貴方作る人、私食べる人。」、「貴方汗流す人、私評価される人。」・・・といった、いじましいほどの利己主義者が蔓延り、始末に負えないのはそのような利己主義者が企業や社会の中枢部を占拠し、サロンや茶坊主世界を形成しているという現実があるためである。 ナレッジ・マネジメントの説くような世界になるための第一は、このような企業文化をデコンストラクト(de・Construct)する勇気を経営者層が持てるかどうかである。 その第二は、情報や知識の共有とは、それを持つ者のみがその価値を知っているのであるから、他人の手を経ることなく直接情報を発信できる仕組みを作ることである。 情報が他人の手を経て相手の手に届くという仕組は日本古来の伝統芸であるが、その結果茶坊主やお側用人・お局様によって情報が歪曲され、加工され、闇に葬られ、情報を提供した者が常にバカを見るという世界を形成した。「雉も鳴かずば、打たれまい。」貴方が寝業師でない限り、「読み書きソロバン」が出来なければ口述人が必要になるし、取次ぎ茶坊主も必要になる。 そのような馬鹿げた世界を回避するためには、情報発信手段のリテラシィ(Literacy)、要は「読み書きソロバン」の基礎知識を経営者層はもとより全社員・市民が習得することである。 第三は、全面的に負うことは出来ないにしても「情報や知識を発信する責任」を発信する側が常に念頭に置いて発信行為を行なうことであり、情報を受信する側は受信した情報を鵜呑みにすることなく、常に自らの頭で判断する習慣を身につけることである。 そして第四は、知識や情報がいくら貯まっても、それをもって知恵(埋設知)にはならないという現実を謙虚に受け止めることである。知識が無ければ知恵は涌き出ない。しかし知識があるからといって優れた知恵があるということにはならない。 知恵は、経験や体験や他との関わりを通して、そして神との対話を通じて形成されるものであると筆者は考える。 そして最後の第五は、知識を共有することによって情報を発信した者も受信した者も共に達成の喜びを感じられるような仕組を形成する必要がある。企業の内部においても社会においても、努力した者が報われる仕組が必要となる。 掲載2000/03/05 |