ビジネスモデル特許
情報技術を利用したビジネスの仕組やアイデア・概念を特許として保護しようとするもの。 例えば、インターネット商店街で購入する商品をバスケットに入れるという他愛もないアイデアであっても、そこにプログラムの開発を伴うため、特許として保護されるというものである。 更には、「逆オークション」のように、品物を購入する側が購入希望品目と価格をインターネット上に公開して、販売者を募集するという仕組も特許として保護されている。 特許権というものは、産業上利用できる新規な発明に限られるのであるが、インターネットの利用そのものがまだ新しく、そこに展開されるアイデアが従来は制約があって出来なかったものが、コンピュータとインターネットを利用することによって実現可能となるという意味で、新規な発明と認定され得るという事だと理解できる。 新規なアイデアは保護されねばならないが、誰もが考え付くようなアイデアでさえも保護されるべきだとすると、大きな社会問題に発展する可能性がある。 冒頭の二つのアイデアでいうと、「バスケット」に入れる行為は毎日のスーパーの買い物で行なわれているし、「逆オークション」などは合い見積もりという形で現実の企業活動として行なわれている。従って少しも新しい概念ではないのであるが、情報技術を利用しているというだけで保護されるとしたら、誰もが権利の乱用ではないかと気付くはずである。 ビジネスモデル特許が米国を震源地として世界中に広まろうとしているのも、かっての帝国資本主義の勃興と同じパターンを辿っているかのように思うのは筆者だけではないだろう。 蒸気機関という産業技術を先行取得した英国が、その生産力を武器にして技術を持たない国を植民地化したのと、情報技術を先行取得した米国がビジネスモデル特許という武器で他国から特許料を掠め取ろうとしているのとどれほどの違いがあるだろうか。 21世紀は、帝国資本主義ならぬ、帝国知本主義の覇権を争う戦争の時代へ突入するのであろうか?その時はバーチャル・リアリティで闘ってくれれば良いが、そうでなければ人間というものは学習する組織の構成員ではなくて、「学習しない組織」の構成員となる特性しか持ち合わせていないということになる。 基本特許はその開発と取得に膨大な費用がかかるといわれているが、領土権を主張しない南極条約と同じような人類の共有財産として私権の行使を制限することも必要になる日が来るのではないだろうか? 掲載2000/01/16 あれから10ケ月。ようやく新聞紙上でもビジネスモデル特許を冷静に分析する風潮になってきた。 10月9日付の日経新聞「サイエンス・アイ」に職務発明であっても特許の個人出願の道を開いてはどうかとの意見が掲載されていた。 日本の場合、職務発明は就業規則でその成果を企業に譲渡するよう義務付けているそうである。一方、特許法が最重視しているのは個人の頭脳活動であって、頭脳の閃きがない限り新しい成果は得られないのだから、発明の成果は研究者個人に帰属すると考えるのが特許法の基本ルールなのだそうである。 法の定めを日本人一流の考え方で軌道修正しているのである。これも企業一家意識があるならば、許されるかもしれない。終身雇用の保障があり、成果に応じた評価が得られたならば、職務発明の成果を企業に譲渡することに、さほど躊躇いはないだろう。 ところが企業の頂点に立つ脳細胞=殿の取巻きは違うことを考えているに違いない。 悪いことに殿を取巻く宦官・茶坊主・お局様・ヤッコダコの人々は「研究者とは爾来偏屈者の集まりでございます。付き合い麻雀には参加しませんし、手揉みも出来ません。協調性の無い人間がいかほどの発明をしようともお城の中で創ったもので、殿のお暮らしには些かも役立ってはおりません。むしろ私どものように、殿にお茶をお出しし、お尻を拭く事を職務としている者こそ殿のお役に立っているのでございます。」と、もし殿が従わないのなら明日からケツは拭かないぞと脅しながら言うものだから、くだんの研究者にはハシタ金の報奨金を恩着せがましく渡し、翌日にはリストラの一環としてクビにするのである。クビにならなくとも協調性が無いとして、終生下隅に置くのである。 さて、もしそのような社会文化・企業文化が蔓延していると仮定したら、ビジネス・モデル特許は取得できるのだろうか・・・・? 掲載2000/10/09 あれから3年半が経った先日、「青色発光ダイオード」の特許権を巡る地裁判決が出た。200億円という知的財産権が認められたわけだから経営側が驚愕しマスコミが騒ぐのも当然といえば当然のことだろう。 思い出してみよう。知的財産権を巡って企業側と交渉し「厚い馬鹿の壁」に阻まれてひっそりと追われるが如くフェリーに乗ったあの時の考案者を写した映像を・・。見送りに来たのはかっての部下同僚数名。あの中に経営陣がいたのかどうか判らないが、日本企業の多くは「権利を主張する者」に対して我々が考えている以上に冷淡かつ愚鈍なのではないだろうか。 「権利」と言う言葉を複雑系のマネをして、その社会の通念上正当と考えられている権利と、自己保存と自己顕示のための権利と、人の行動規範としての権利とに分類してみよう。 「その社会の通念上正当と考えられている権利」とは、その人が所属する社会の閉鎖的かつ横並び意識によってその当否が決められる権利概念であり、「自己保存と自己顕示のための権利」とは、手前勝手の論理で声のでかい奴の主張が通るという図々しさの概念であり、「人の行動規範としての権利」とは人類のこれまでの史実の中で形成され未来の人類の発展を担保する権利概念と定義付けたい。 このように「権利」という言葉の持つ事象を分解して考えるならば、何が正当な主張で何が不当な主張であるかが判明するのであるが、単数形社会にどっぷりと浸かり叱ってくれる人も無いままに順風満帆で殿と仰がれる立場になった人々の思考回路では区別がつかないのである。 先日、ペット教室で講師から「どんなに訓練してもシツケの悪い犬は良い犬にはならない。」と教わったが、何も犬に当てはまるだけでなく、企業社会にも大いに当てはまる言葉だと感心した。 やって良いことと悪いことの区別もつかず、抽象的観念論の言葉遊びで声高に主張はするが実行力が無く、率先垂範などという言葉は古語として、キツイ仕事を他人に押し付ける背信的指導者のみが生存できると錯覚している彼らは、決してビジネスモデル特許を考え出す情報の受益者にはならないに違いない。 掲載2004/02/15 |