単数形社会
物事を考え対処するときに、一つの側面しか見ずに、一つの対処しかしないことを最も効率的であると考える社会。自己の論理を最上のものとして捉え、それ以外の論理を受け入れない社会。自分だけが生き残れば良いと考える社会。(筆者の造語) 「これまでに見聞きした・・」ということで3年前に始めた洋語辞典に「筆者の造語」を加えることに抵抗感が無いわけでもないが、既にいくつか造語を加えているので、包容力の有る貴方には許していただけるものと思います。 「単数形社会」?。こんな言葉を思いついたのは、つい先日、書店をぶらついて買った一冊の文庫本に端を発する。 「問題解決の思考技術・・できる管理職の条件・・」(飯久保廣嗣著)という本である。 文庫本として売られたのは、つい1年前であるが、11年前の1991年、丁度バブル崩壊のまっ最中に刊行されているから、読んだ人は多いに違いない。でもその当時、この本を読んだ「できる管理職」の人々は、多分現時点では大半が定年か、リストラに遭ったかしてビジネス社会からは退いているに違いない。 そのあとに残ったのは「できない管理職ばかりだった」とは言わないが、日本人の精神構造と日本社会の営みのルールが、誠に刹那的で、現世利益の追求を至上命題とし、短絡的で自己中心的な論理が優先して、他人の想いには到底思い至らないタイプの人材が重用される時代になっていることは確かのようである。 どうしてこの様な社会になったのだろうと考えてきたが、飯久保氏の本を読んでその原因の一つが分かったような気持になった。 それは日本人の言語が単数形で表わされることに由来し、必然的に起きる可能性の高い現象の思考形態であると言うことである。全ての局面を精神主義で解決しようとする指導者が増えれば増えるほど、その傾向は高まる。少し長くなるが飯久保氏の記述を引用させてもらおう。 まず第一に、日本語ではよく主語を省略します。・・・。第二に、動詞が省略される場合もあります。・・・。第三に、日本語では単数と複数の表現が、ほとんど区別されません。・・案外気づかれていないことですが、これが日本人の思考に、かなりの制約を与えていると思えます。たとえば、「問題は何かね」と上司が部下に質問するケースです。「問題」は単数表現です。そのうえ「ひとことで答えろ」などと、性急に迫ったりします。現実はおそらく、問題が山積していて、整理されていないのがふつうです。それを単数で迫られると、答える方はその人なりの判断で、絞り込んでしまうのですが、はたしてそれが最も優先されるべき問題かどうか、保証の限りではないのです。「諸問題」という複数形で考えれば、目前のさまざまな問題を列挙して、優先順位に従って解決するという発想も出てくるのです。・・・このような思考の制約からくる短絡的発想、一面的な考え方は、非効率どころか危険でさえあるのです。 「売上を増やせ」、「財務体質を強化せよ」、「利益を上げろ」、「原価を下げろ」、「質を落とせ」・・云々。実に様々な、しかも時として矛盾する命令が経営陣から出される。1967年発刊の中根千枝教授の「タテ社会の人間関係・・単一社会の理論・・」ではないが、序列意識で形成されている組織において、その出された命令がいかに矛盾し、いかに不条理なものであったとしても、それに反論し不服従の態度を示すことは自殺行為に等しい結果がもたらされるという真理が日本人の行動規範とされ、日露戦争と戦後復興期の一時期を除く江戸時代以降脈々として、特にバブル崩壊後の失われた10年の時代に更に拍車がかかった「真理」と感じるのは筆者だけだろうか。 「売上を増やせ」と命令されても、何の売上をどの様に増やすのかが示されなければ、顧客の望まないものを売り歩く詐欺行為を助長することにもなりかねない。「財務体質を強化せよ」と言われても、それこそ正に経営戦略の根本であり、スローガンだけで膨大な借金が自動的に減るわけでもない。「利益を上げろ」と命令しても、現場と一体になって汗をかく覚悟の無い指導層の命令には誰も本心から従わない。「原価を下げろ」という命令に従うと、大量の下請会社を倒産させることこそ忠実な下僕と勘違いする。「質を落とせ」と言われたのでは、未来永劫、顧客からは見放される。 では、どうするか。その解決策の一つは飯久保氏の言うように、複数の観点から諸問題を分析する思考技術を会得することだろう。 そしてもう一つは、言葉の定義とその意味するところを明確にすることである。 近年、日本社会において「能力主義・実力主義」という言葉が大手を振って駆け巡っているが、能力なり実力なりがどのようなものかを理解して話しているのか、カッコ良さに駆られて話しているのかが判らなくなることがある。戦後長い間、偏差値が多用されてきたが、その思想は知識平等主義に根ざした能力の峻別であったと筆者は思っている。より沢山の知識を有する者はより高い能力を有するとする短絡した考え方である。 広辞苑によると「能力」とは、「@物事をなしうる力。A精神現象の諸形態を担う実体。Bあることについて必要とされる資格。」と説明されている。「能力主義」を標榜した場合、一人一人の異なる精神現象について、正しくその働きを評価できる方法があるのだろうか。もし、あると断言する人がいたとしたら、その人は相当独善的で傲慢な人であろう。 戦後日本の民主主義教育の誤ったところは、知識=能力平等主義で教育を実践してきたことだと思う。これは学校教育に限らず企業内教育においてもしかりである。 技術系の人間に事務系の仕事を教えても身に付かないであろう。前線で戦っている兵隊に天下国家のあるべき論を教えても戦況を変える役には全く役立たないであろう。 多弁で実に多くの知識を持っている輩は多いが、本人は何を目指そうとしているのか、何を行なおうとしているのかが全く判らない、そのような豊富な知識を有する社員を「有能な社員」と認識している企業幹部がかなり増えているのではないかと思うことがある。 グローバルスタンダード、コーポレートガバナンス、デュー・デリジェンス、ビジネスモデル、リバース・モーゲージなど、カタカナ言葉やアルファベット英語を多用することによって、いかに自分が豊富な知識を持ち有能な社員であるかを上司に売り込み、上司は自分がその言葉の意味を知らないことを部下に覚られまいと判ったフリをして、一言「君、だいじょうぶだね」と念を押すことこそ上司の役割であると堅く信じて、疑われずに幹部になった人間が意外に多いのではないだろうか。 バブルが膨れているときに「実力」を認められ、自ら信じる有るべき姿を示すことも無く、いかに上長に取り入り「ババ」を部下や同僚に押し付けるかの「能力」にだけ長けた輩が現代日本社会の指導者として君臨している可能性がかなりの割合で高いかもしない。歴史は繰り返すというから、現代の日本企業は、遥か後方の絶対安全な大本営に身を置いて精神主義の命令しか発せられなかった大日本帝国陸軍の参謀たちの過ちを再び犯そうとしているのかもしれない。 それも一つの人生の歩み方で、本人だけに帰属するならば良いが、巻き込まれた周りはたまったものではない。 しかし能力の違う人々によって社会なり組織なりが営まれているということに気付くと、別の世界が見えてくる。 神が我らに与えられし能力は、残念ながら不平等に与えられているのである(努力と経験によって体得することは出来るが)。 適確な決断力にあふれた、リーダーに適した能力を兼ね備えた人もいれば、それを補助する能力に長けた人もいる。前線で戦うことを得意とする人もいれば、後方で食事を作ることを得意とする人もいる。 かって「職業に貴賎は無い」と教わった。どの仕事も人間の営みにとって大切であり、それらが「適材適所」で組み合わされて活用されることによって、高い生産性と活気に満ちた明るい社会が形成される。 それは複雑系の視点を取り入れた複数形の社会を目指すということにほかならない。 掲載2002/07/14 |