ドーシツ社会
ドーシツ?。 ここで突然クイズです。「ドーシツ」と聴いて、貴方はどんな言葉を思い出しますか? マニアな人の回答・・英語の得意な方は「Do sit!」(筆者は英語が出来ませんのでそのような言葉があるかどうか判りませんが、雰囲気的に訳すると「ヒカエオロー、土下座せよ。」)と「誰にでもエバリ散らす社会」のことと回答するかもしれません。 日本語に拘る人は、最近中身の違うものが売られているから「質が動く、動質」と答えるかもしれません。いやいや、最近企業の不祥事が多いから、「広報室やお客様相談室の担当者を恫喝する恫室だ。」というかもしれません。お〜コワ。いやいやそんなものじゃない。「誰も親身になって考えないでタライ回しに病室や関係部室を動かされた挙句、一命を失う患者さんやサラリーマンの姿をあらわす動室だ。」と言うかもしれません。ナルホド、ナルホト゛。 或いは洋語辞典の読者の方は、以前「単数形社会」について触れたことがありますので、「偏差値と積め込み教育で個性の無いキンタロウ飴みたいな人間で構成されている社会を揶揄しようとしているのだな〜ぁ。」と考えて「同質社会」と答えるかもしれません。 う〜ン。ちょっとオシイ。動物は群れることをDNAに打ち込まれています。動物は同質の群れを作ることによってその種を保持しようとしています。人間もまた動物である以上、遺伝子的に群れることを運命付けられている動物なのです。従って、群れる以上はその構成メンバーが同質であることを要求する、同質であることは必ずしも悪いことばかりではないと思うのです。 小菊な人の回答・・正解は道失社会でした。 財政諮問会議などで「全国の高速道路の凍結」が話題になっていますから「高速道路を失う地方社会」について触れようと思っているのではありません。 例によって広辞苑を紐解くと「道」とは、「A人として守るべき条理、宇宙の原理、宗旨、仏教の教え」とあります。「人道」や「武士道」・「商売道」・「茶道や柔道」、或いは「ナニワ金融道に北海道」と「道」が付く言葉がいくつかあります。この失われた10年、いや20年になるかもしれませんが、筆者の心の片隅に「日本社会がおかしくなっている原因は何か?」といつまでもクスブリ続けている疑問が、「道失社会」と言う言葉に置き換えることによって、その一端が解明できたかのように思われるのです。 日本史は不得手な受験科目で体育もダメでしたので武士道の話をするのは些か無責任な感じも無くはありませんが、江戸時代、武士道の一つの現われとして「武家屋敷駆込み慣行」という習慣があったそうです。若干解説をしますと、 止むごと無き理由から武士同士が決闘することになり、相手を打ち負かした勝者が、相手方の仲間の追っ手から逃れるために武家屋敷に駆け込んで来た場合の対応として、まず門の外で追っ手の言い分をつぶさに聞き取り、逃げ込んできた者の言い分も聞いた上で、尋常の勝負である場合には、屋敷の主は駆け込んで来た者を全面的に保護し追っ手の要求に屈してはならない。一方、不義・非道、不正な手段を行使した結果勝利した場合には、屋敷の主は逃げ込んできた者を自らの手で打首に処し、その首(生身の体は渡さない)を追っ手に渡すのが、慣行とされていたそうです。 いま時の日本はグローバル・スタンダードな時代ですから、江戸時代の慣習を取り上げても一笑に付されるのがオチですが、何故か「某領事館の駈込み事件」(解決して良かったけれど)と対比してみると、「人間としての生き方」に昔と今とでは随分と違いがあるように思うのです。 多分、イマ時の日本のデファクト・スタンダードは「窮鳥、懐に入らば・・」という諺の下の句を「焼き鳥にして食べてしまえ。」と答える生徒や新入社員こそ「生命力があり、抜け目が無く、優れた現実主義者である。」と評価し始めている結果かもしれません。例え、その世界がロマンも愛も無い世界となっていたとしても、我が身の存命こそ史上最高の真理と考える人々が圧倒的に増加していることの証左であると考えるべきかもしれません。 融資先の企業がどんなに困っていても貸した金は返済期限前に取り上げ、下請企業がどんなに困難な状況に置かれていても原価を削って危険な作業を命令する、そんな企業戦士だけが生き残れると考える社会的風潮が、あの「領事館事件」と深層海流で繋がっているのではないかと筆者には思われるのです。 昔、「どんなに小さな零細商店であっても、店主たる者、一人でも店員を雇った以上はその家族の命を預かって商売を営んでいることの責任の重さを常に忘れてはならない。ましてや店主の家族は、無学な店員に感謝こそすれ、店主の子供だからと言って店員にエバリ散らしてはいけない。」と、くどいほど教え込まれたものだった。 現代、何万人もの社員を雇用する大会社であっても「経済状況が悪いとの一言で、工場を閉鎖し、下請企業を切捨て、運転資金を取り上げる。」ことこそ、「実績主義の時代にあっては正しい選択である。」と信じて止まない経営指導者層が多いのではないだろうか。 そこには「自らが犯した経営上の判断ミス。見て見ぬフリをし続けて来た自らの不作為。身の丈をわきまえない慢心と傲慢さ。・・」それら諸々の自省すべき事項を闇の向こうに閉じ込めて、厚顔無恥にも何万人もの従業員、更には下請企業も含めた何十万人もの家族の人生設計を一瞬の内に狂わせてしまうことに何らの躊躇いも痛痒も感じない冷血なロボットみたいな人物が、日本の社会のリーダー層を形成しているのではないかと思うことがある。 いや、鉄腕アトムやドラえもんの例もあるからロボットの方がまだ温かい血が流れているかもしれない。 「失われた10年」、いや、「20年」に突入している日本を見ていると、かって大英帝国を蝕んだ「イギリス病」が、更にその害毒を高めて「日本病」となっているに違いないとすれば、それは経済システムの変容があるためかもしれない。 うる覚えであるが、かって学んだ近代経済学の知識では、資本と労働の分配率は一定比率に落ち着く傾向がある。この理論で考えると、高度に資本が蓄積された社会では労働の価値も高まらざるを得なくなり、結果的に国際社会の中では割高な労働価値の支払を強いられ、蓄積した資本財の更新も出来なくなって国際競争力が低下する。 このような「神の見えざる手」に誘われて右往左往しているのが現代の日本社会なのかもしれない。 しかし、かって筆者が「企業人」で触れたように、社会は一つ一つの構成要素である人間の集まりによって構成されており、各々のパートで各々が果たすべき役割を全うしてきたならばこのような社会にはならなかった可能性がある。 結果がどうなるか予想出来たにも拘わらず、SPCだかコーポレートガバナンスだか意味も判らず流行語を追い掛け回し、「道」を失った幹部の命令に盲目的に従って肉を詰め替え不良債権の山を築き上げた、指先の細胞の責任もあるだろうが、「商売道とは何か」について「神と対峙する人」ほどには真剣に考えてこなかった結果であるのかもしれない。 今、全国で官民の区別無く様々な合併協議が活発に行なわれているが、短期的な利害損得と狭い了見と意地で議論が歪められない様、「知恵」を出し合ってもらいたいものである。 「呉越同舟」とは「敵味方に分かれて戦った間柄であっても同じ船に乗った以上は、知恵を出し合い、力を出し合い、激しい濁流と嵐を乗り越える」ことを表わした諺だと理解しているが、現代社会では「同じ船に乗ってきた以上は、先ず相手の座布団を取り上げ、食い物も取り上げて、体力を落とした相手を船から突き落とすならば、最後まで生き延びられる。」と言う意味に解釈している人々が増えている。 餓鬼と阿修羅の世界を望まないのであれば、今一度「道」について考えてみてほしいと思う、この頃である。 掲載2002/10/13 一部加筆2002/12/01 |